→戻る 我慢 現代では「しんぼうする」「自分を抑える」「耐え忍ぶ」といったような意味で
(がまん) 使われていますが、もともとは、強い自我意識からおこる慢心、「自分を高く
見て、他を軽視する」「自分に自信をもつ」というような意味でつかわれてい
ました。現在の“我慢”という言葉の使われ方は、「我意を張る」「強情」と
(2000.11.4) いうようなことから転義したと言う説や、自分に自信を持っている人は耐える
ことができるということからきている、等等、諸説あります。
挨拶 「おはよう」「こんにちは」など、あいさつは人と人とのコミュニケーションには
(あいさつ) 欠かせないものです。たとえ知らない人でも、挨拶をすることによって、自然と
親近感がわいてきます。
この挨拶という言葉は、もともとは仏教語(禅語)で、“ぐっとせまる”“ぐさりと
やる”という意味でした。中国の宋の時代頃からつかわれていて、禅で、言葉
などによって相手の急所をつくという意味で用いられています。
(2000.9.4) 転じて、返答・返礼の意味に用いられるようになり、さらには出会いや別れの
時の言葉や動作のことを“挨拶”というようになっていきました。
四苦八苦 苦しみを4つあるいは8つに分類したもので、原始経典(初期の仏教経典)
(しくはっく) 以来説かれているものです。四苦は生・老・病・死のことで、これに愛別離苦・
怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の4つを加えて八苦となります。
≪四苦≫ ・生…生まれる苦しみ(自分で出生を決められない)
・老…老いる苦しみ(死の前兆としての老い)
・病…病む苦しみ
・死…死ぬ苦しみ
・愛別離苦(あいべつりく)…愛する人と別れなければならない苦しみ
・怨憎会苦(おんぞうえく)…イヤな相手と会わなければならない苦しみ
・求不得苦(ぐふとくく) …欲しいものが得られない苦しみ
・五蘊盛苦(ごおんじょうく)…肉体と精神が常に生み出す苦しみ(*註)
*五蘊とは色(肉体・物質)・受(感受作用)・想(表象作用)・行(意志
作用)・識(認識作用)の5種をいう。蘊とは、集まりという意味で、
人間の肉体と精神を5つの集まりに分けて示したのが五蘊である。
(2000.9.4)
後世になって、人間界のすべての苦しみということから、“あらゆる苦しみ”
“非常な苦しみ”を意味する言葉になりました。
お盆 「お盆」という言葉は、もともとはサンスクリット語のullambana(ウランバナ)
(おぼん) に相当する音写<盂蘭盆(うらぼん)>からきている言葉で、倒懸(とうけん:
逆さまにつるされた苦しみ)と漢訳されています。
お盆に先祖供養するようになったのは、古代中国やシルクロードの国々で、
この倒懸の苦しみを受けている死者を救いたいという願いを込めて営まれたの
が始まりとされています。この思想の典拠となっているのが「盂蘭盆経」です。
盂蘭盆経(うらぼんきょう)は、竺法護(じくほうご)の訳とされていますが、
サンスクリット原典やチベット語訳がなく、偽経(ぎきょう:インド以外で書かれた
と考えられているお経)ではないかとされています。
盂蘭盆経によれば、目連尊者(もくれん:釈尊の十大弟子の1人)が、死後の
世界で母親が苦しんでいるのを発見し、釈尊の教えに従って供養を営んだとこ
ろ、その功徳によって母親が救われたとされています。
この説話に由来して、祖霊を死後の苦悩世界から救済する「盂蘭盆」の行事
(2000.8.9) が生まれ、中国から日本に伝来して先祖供養に欠かせない行事となりました。
盂蘭盆会は中国では538年(大同4年)、日本では606年(推古14年)に
行われたというのが古い記録となっています。
*活溌溌地(桜田中の相談員のHP)の“月刊・活溌溌地”99年7月号でも
お盆について書いています。
木魚 ご存知の通り、木に龍や魚を彫りこんだ、球形の法具で、お経の調子を
(もくぎょ) ととのえるために使われているものです。
木魚が今の形になったのは、中国の明の時代(14〜17世紀)ごろで、
日本には江戸時代に、黄檗宗(おうばくしゅう)とともに伝えられたとされて
います。
もともとは、木で魚をかたどった細長いもので、廊下につるして、食事や
法要の時に鳴らし、合図として使っていたもので、魚鼓・ほう・魚板などと
よばれているものです。永平寺などの、修行道場等で現在も使われている
のを見たことがあるかも知れません。
(2000.7.1) なぜ魚の形なのか? 諸説あるようですが、魚は寝る時も目を閉じない
ということから、修行僧が怠けて、眠ってしまわないように戒めているのだ、
と聞いたことがあります。
合掌 顔や胸の前で手のひらをあわせることです。日本で人々が出会ったときに
(がっしょう) お辞儀をするように、インド、スリランカなどの南アジア諸国では、お互いに
合掌して挨拶します。日本や中国では、おもに仏教徒が仏様に礼拝するとき
に使われる礼法です。
仏教で行われる合掌は、仏に対する帰依(きえ・信奉すること)をあらわす
ものです。また、両手をあわせることは、精神の散乱を防いで、心をひとつに
するためでもあるとされています。
(2000.5.24) 「合掌し低頭して口に唱えて云く、
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」(修証義・受戒入位)
南無 (なむ) “南無”釈迦牟尼仏、“南無”妙法蓮華経など、仏様やお経の前についている
「南無」という言葉は、もともとはインドのサンスクリット語のnamas,namoなどに
相当するものです。 この語は音写といって、原語に近い発音の漢字をあてた
ものなので、南や無という漢字には意味がありません。現代では、doorをドア、
Americaをアメリカといったように、英語を日本語表示する、つまり外来語と同じ
ようなものです。
さて、この「南無」は、敬意を表すること、敬意を表するために体を曲げること
帰依(信奉すること)を意味します。たとえば「南無阿弥陀仏」ならば、“わたしは
(2000.5.23) 阿弥陀仏に帰依します”あるいは“阿弥陀仏を信じ、尊びます”というような意味
になります。ナムナム、、、